知里幸恵と蜜豆

2026.09.25

参考:とらや 赤坂店のあんみつ


消えゆく口承文芸をアイヌの少女が文字化

知里幸恵(ちりゆきえ・1903~22)は、北海道の登別に生まれたアイヌの女性です。15歳の時、言語学者の金田一京助(きんだいちきょうすけ)と出会い、消滅の危機にあったアイヌの口承文芸を文字で記録するようになります。女子職業学校を優秀な成績で卒業後、大正11年(1922)5月に上京し、京助の家に下宿しながら『アイヌ神謡集』という書籍にまとめあげました。しかし、持病の心臓病が悪化し、東京に出てきてわずか4か月後、19歳の若さで急逝してしまいました。

東京の味を楽しむ

下宿中、京助の妻の静江は幸恵を実の娘のように可愛がって、着物を買ってやったり、たびたび東京観光に連れていったりしていたことが、幸恵の日記や手紙からわかります。
たとえば、5月30日に静江と女中の菊の3人で上野の博覧会※1に行ったときのことが、両親宛の手紙※2に詳しく書かれています。途中、幸恵はイチゴ味の炭酸水と蜜豆を御馳走になりました。炭酸水のコップに添えられていたストローを知らず、「箸の様な「かや」の棒」がついていると不思議がる幸恵に、静江は笑いながら使い方を教えてやりました。感心した幸恵がさっそく飲んでみると「如何にもしとやかな令嬢になった様」な気分に。ところが馴れないことなので、つい直接コップから飲んでしまそうになり、「心の中で頭をかいたり」したのでした。


蜜豆については、「ところてんの様なものにあまいお菓子だの、赤や白の「ふ」の様なのだのはいった涼しさうな物で、東京の名物だとの事でした」と記しています。「赤や白の「ふ」の様なの」は求肥のことでしょう。
蜜豆の原形は、屋台で売られていた駄菓子。新粉細工で作った舟に、赤えんどう豆を入れて蜜をかけたという素朴なものでした。それを、明治36年(1903)に浅草の舟和が、銀の器に、赤えんどう豆、さいの目切りの寒天、果物などを盛り付けて蜜をかけた喫茶メニューに改良。おしゃれな食べ物として大流行したといわれています。
大正時代には、東京ではすでにおなじみになっていたと思われますが、上京して間もない幸恵の眼には、炭酸水とともに非常に目新しく、都会的なものとして映ったことでしょう。


ちなみに、味の感想はといえば、寄宿していた学生時代、毎朝のご飯に砂糖をかけて食べていたほどの甘党ながら、「あまいのあまいのと云ったら、おはなしになりませんでした」と記しており、その甘さに驚いたようです。
また、なんでもおいしそうに食べる幸恵を、静江が「ほんとうに好い人だ」と誉めるのを、「うまいものを沢山食べて、それでいゝ人になるので私は非常に得だと思ひました」とユーモアたっぷりに書いています。当時、すでに体調が悪く、床に臥せる日もあったのですが、遠く離れた両親に心配をかけまいと、東京での生活を楽し気に書き送るけなげで優しい心遣いが胸を打ちます。もっと長生きしていたら、好奇心旺盛な幸恵は新鮮な感覚で東京の味のことをいろいろと書き残してくれただろうと思われ、早世が惜しまれます。


※1 第一次世界大戦の終結を記念した「平和記念東京博覧会」。東京府の主催により、上野公園を会場として大正11年3月10日から7月31日まで開催された。
※2 大正11年6月9日付の書簡。


*連載「歴史上の人物と和菓子」を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社、2017年)が刊行されております。そちらも是非ご一読くださいませ。

参考文献

中井三好『知里幸恵 -十九歳の遺言-』彩流社 1991年
山下直久『知里幸惠 日記・書簡集』KADOKAWA 2025年


 

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