赤坂店のあゆみ
【赤坂 第6回】第二次世界大戦下のとらや

戦時色が濃くなり、国家総動員法が昭和13年(1938)に制定され、徐々に厳しい統制経済が始まります。とらやも次第に原材料不足に悩まされ、営業時間の短縮や、生産の縮小をしなければならなくなりました。また、男性店員がどんどん召集されるようになり、人員不足を補うため、多数の女性店員を雇ったという記録が残っています。
昭和20年5月25日夜、空襲警報のサイレンが鳴り響き、間をおかずB29爆撃機の大群が東京を襲いました。この空襲により赤坂一帯が焼き払われ、表町店は焼け残ったものの、伝馬町(現港区元赤坂、東京工場所在地)の工場は全焼しました。工場の倉庫には海軍に納めるばかりになっていた羊羹がありましたが、みな焼け溶けて流れてしまっていたので、集まってきた方々にお配りしました。遠く上野下谷からいらした方もいたようで、甘いものがないときだったため、喜んでいただいたそうです。
なお、この空襲時、女子店員たちの必死の努力によって重要な書類が工場から運び出され、守られました。「弁慶堀にのがれ、水中に浸しておいたので焼失をまぬがれる」という記録が残っており、店員たちの奮闘によって残された史料は、現在とらやの歴史を辿るのに大いに役立っています。