歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。

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2021.11.19

新井白石と玄猪の餅

参考:幕末頃の幕府の玄猪餅(再現)『徳川制度史料』より 

江戸時代を代表する大学者

新井白石(あらいはくせき・1657~1725)といえば、六代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)・七代家継(いえつぐ)の政治顧問を務め、「正徳の治」と呼ばれる政治改革を主導したことで知られます。しかし、家宣に仕える前には2度の浪人生活を経験しており、また正徳6年(1716)に吉宗が将軍に就任すると、引退に追い込まれました。こうした、いわば不遇の時代にも研鑽を積み、歴史学・地理学・言語学・洋学などの分野で数々の著作を残したことから、学者としての功績は政治家としてのそれを凌ぐといえるでしょう。

将軍が餅を配って肩を痛める

政治の表舞台から去った後に、白石と交流を深めた人物の1人が水戸藩(茨城県)の儒学者安積澹泊(あさかたんぱく)です。2人の書状のやりとりを収めた「新安手簡」には、幕府の「玄猪(げんちょ)」儀礼についての興味深い内容があります。玄猪は旧暦10月の亥の日に、餅※1を配って子孫繁栄などを願う行事で、幕府の儀礼は特に盛大でした(菊池貴一郎と亥の子餅)
白石が書いているのは、幼少期から自分を可愛がってくれた旧主土屋利直(つちやとしなお)が常々語っていたことで、二代将軍秀忠は、玄猪の際、出仕者全員に手ずから餅を2つずつ下賜していたため、「其後二三日は御肩をいたませられ」たという話です※2。また、三代将軍の家光も、当初は同じようにしていたが、後に一定の身分までは手渡しで、それ以下は出仕者が自分で餅を取る形式になったともあります。利直は秀忠・家光に仕えているので、いずれも実際に見聞きしたことを語ったと考えられます。

実証主義を重んじる

この逸話を別の史料で確かめると、秀忠の時代は詳細がわかりませんが、家光の時代に大名・旗本から医者や茶坊主まで、全て手渡ししていた例があります。総勢は1,000人を優に超えますから、肩が痛くなるのも当然でしょう。まして家光は度々大病にかかって政務が滞るなど、心身に不安を抱えていました。手渡しを一定の身分までに変更したのもそうしたことが一因だったのかもしれません。
将軍が玄猪のせいで肩を痛めたことなどあまり表に出すようなことではありませんが、学者仲間とのやり取りでもあり、事実は事実として書き残す姿勢を貫いた白石らしいともいえるでしょう。一方、自分自身は玄猪に参加しなくなったため、「当時(現在)」のことはわからないと何度も断っています。そうした姿勢からは、「証なく拠なく疑わしき事は、かりそめにも口より出すべからず」と実証主義を重んじた、白石の歴史学者としての矜持が感じられます。

※1 地域や階層によって、牡丹餅や赤白黒の碁石形など様々で、幕府でも紅白の餅や5色の鳥の子餅などがあった。とらやでは、鎌倉時代の文献を参考に、毎年11月に胡麻やきな粉などを使った亥の子餅を販売している。
※2「嘉定私記」(1818成立)には、同じく菓子を下される「嘉定」の際のこととして同じ逸話が記されているが、これは「新安手簡」の玄猪についての記載を嘉定と混同して写されたものと考えられる。

※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』山川出版社・1,800円(+税が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

宮崎道生『新井白石』吉川弘文館 1990年
吉川半七『新井白石全集』第五 1906年
藤井譲治監修『江戸幕府日記』第4巻・第5巻 ゆまに書房 2003年
小野清『徳川制度史料』1927年

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