歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。

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2021.05.31

大槻如電と嘉定菓子

左:虎屋の嘉祥菓子。上から時計回りに、武蔵野、源氏籬、桔梗餅、伊賀餅、味噌松風、浅路飴、豊岡の里(中央)。幕末宮中に納めたものをもとにしている。
右:幕府の嘉定菓子。上から時計回りに、金飩、羊羹、あこや、鶉焼、寄水、大饅頭(中央)。このほかに麩と熨斗があり、合計8種類となる。

博学多才の学者

明治~大正時代の学者、大槻如電(おおつきじょでん・1845~1931)は、一族が医者や学者※1という恵まれた環境で育ちました。彼も明治新政府のもとで漢学の教官を務めたり、教科書の編纂に携わったりしますが、明治7年(1874)、数え年30歳という若さで辞任、翌年には弟に家督を譲り、以後は在野の学者として生涯を送ります。如電の研究対象は、本分としていた和漢洋学のほか邦楽や舞踊、江戸時代の服飾など多岐にわたっており、早々に官職を辞したのは、さまざまな興味の対象に思う存分取り組んでみたいと思ってのことだったのかもしれません。ここでは、明治34年7月31日に、如電が旧平戸藩(長崎県)の藩主だった松浦詮(まつらあきら)の招きで、菓子を食べて厄除けと招福を願う「嘉定(かじょう。嘉祥とも)」の会に参加したときのことを書いた記事をご紹介しましょう。

京都と江戸の嘉定菓子

松浦は故事を知る人々を呼んで五節句※2の会を数年前から開いており、この日は「嘉定」が行われた旧暦6月16日にあたるため、会場の旧平戸藩江戸上屋敷(台東区)に嘉定菓子を用意しました。調達にあたり何軒かの菓子屋に問い合わせたところ、どの店もこの菓子について知らず、やむなく京都出身で御所御用を勤めてきた虎屋に依頼。納められたのは檜葉(ひば)を敷いた土器(かわらけ)にのった7種類の菓子で、招かれた8名の前に置かれました。如電は、この京都式に対し江戸の嘉定菓子は8種類で、幕府御用菓子屋の大久保主水(おおくぼもんと)1店のみが江戸城に納め、これを将軍が大名や旗本に下賜していたと書いています。そして東京の菓子屋に聞いても知らなかったのは、大久保主水だけが携わっていたからだったのだろう、としています。
興味深いのは、参加者に「大広間に千何枚の菓子膳を見たり」とか、「御菓子料として十六銅を拝領せし」などと、幕府や宮中関係の嘉定について語る人たちがいたことです。嘉定は明治時代に廃れてしまった※3のですが、この頃は行事の実態を知る人がまだ一定数いたのでしょう。
ところで、嘉定菓子を食べているときは一言も話してはならぬものだったとか。将軍から拝領する際「慎み恐(かしこ)み息をころして進退」したことに由来するらしいのですが、この会では話に花が咲いてしまい、出された虎屋の菓子もそれぞれ持ち帰ったとのことです。如電も土産にした菓子を食べつつ記事を書いたのかもしれませんね。

※1 祖父の大槻玄沢(げんたく)は仙台藩の蘭学医、父の磐渓(ばんけい)は儒学者、伯父の磐里(ばんり)は蘭学者で、如電の弟・文彦も日本初の国語辞書を編纂した国語学者だった。
※2 人日(じんじつ。1月7日)、上巳(じょうし。3月3日)、端午(5月5日)、七夕(7月7日)、重陽(ちょうよう。9月9日)の5つの節句のこと。
※3 昭和54年(1979)に全国和菓子協会により「和菓子の日」としてよみがえった。

※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

「嘉定の話」(『読売新聞』1901年8月12日号)

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