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歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。

※ お菓子の画像はイメージです。お問い合わせは菓子資料室 虎屋文庫までお願いいたします。

2018.09.19

松平治郷と口切の菓子

参考:虎屋の『朧饅』黄色は御膳餡入、白色は白餡入
「数物御菓子見本帖」(1918)より

茶人 不昧

松平治郷(まつだいらはるさと・1751~1818)は、出雲松江(島根)藩の大名で、藩政改革を断行し、産業奨励を行い、窮迫した藩の財政を建て直した名君です。幼少のころより茶道に親しみ、18歳のとき、幕府数寄屋頭の3代伊佐幸琢(いさこうたく)について、石州流を学び、政務の傍ら茶に勤しんだ茶人大名として知られています。地元松江では、彼の号から「不昧(ふまい)公」と親しみを込めて呼ばれています。文化3年(1806)、56歳で隠居した不昧は、品川の高台の屋敷を隠居所としました。現在の御殿山付近です。今回は不昧の隠居後、文化3年から14年にかけて(4年は除く)毎年10月から11月に行われた、その年に収穫した茶葉を初めて使う茶会、口切(くちきり)の11会に使われた菓子を取り上げます。

口切の菓子

茶会記を見ると不昧は口切の菓子に必ず饅頭を使っています。そこで今回は翻刻された3種類の茶会記から上記期間の口切の記録を抽出し、比較しました。まず一番多かったのは「腰高饅頭」の表記です。文化3、5、6、7、8、9、11、12、13年の9会に見られます。次に「白餡」の表記が多く、文化5、8、9、11、12、13年の6会。特に文化11年の口切には「白餡朧(おぼろ)饅頭」とあり、「朧」の表記は文化5、6、7年にも見られます。朧とは蒸した饅頭の皮を、熱いうちにむいたものです。当時の饅頭は甘酒を入れて生地を膨らませる饅頭が主流でした。皮がむき難くければ、小豆の餡だと中が黒く透けて見えてしまう可能性があります。そこで不昧は白餡にしたのではないでしょうか。特定の行事に特定の菓子を使うことは良くあることで、彼の美意識により口切の菓子に「白餡入朧腰高饅頭」を好んで使っていたのではないかと推測しました。
尚、大正6年(1917)に刊行された『松平不昧伝』中巻の「好み」の項には、「公の好める菓子は種々ありき、松江にては三津屋作兵衛、江戸にては本所二つ目越後屋といふもの、公の指命を受けてこれを製したりといふ」とあり、具体的には特定はできませんが、不昧の指図で、特製の菓子が作られていたことがわかります。口切の菓子もその一つだったのかもしれません。

※口切の菓子には上記以外に「仙台塩瀬饅頭」の表記がありました。これは不昧の正室が仙台伊達家出身ということもあり、実家からの頂き物、あるいは取り寄せたと考えられます。仙台塩瀬饅頭に関しては、機関誌『和菓子』25号【特集『藩と菓子』】の籠橋俊光氏論文「仙台藩御用菓子司と菓子について」に詳しい記述があります。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

米澤義光『松平不昧公茶会記二題』能登印刷出版部 2014年

山本麻渓、木全宗儀 編『古今茶湯集』巻四 慶文堂書店 1917年

松平家編輯部編『松平不昧伝』中巻 箒文社 1917年

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