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歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。
※ お菓子の画像はイメージです。お問い合わせは菓子資料室 虎屋文庫までお願いいたします。

2016.09.15

鶯亭金升と京鹿の子

虎屋の『京鹿の子』
大正7年「数物御菓子見本帳」
(虎屋黒川家文書)より

移りゆく東京に生きた粋人

鶯亭金升(おうていきんしょう・1868~1954)が生まれたのは、江戸時代が終焉を迎えた慶応4年のこと。明治時代から戦前にかけては雑誌や新聞の記者をつとめ、近代の出版文化発展に貢献しました。また、落語や都々逸(どどいつ)、狂歌、小唄の作者としても名を知られた粋人です。
江戸から東京への移行、関東大震災、第二次世界大戦、そして戦後という世の中の変化を見つめ続け、晩年は時代の生き証人として、明治~大正時代の東京の風俗や人情を好んで書き残しました。

京鹿の子といえば……

随筆集『明治のおもかげ』には、浦賀奉行もつとめた父が、幕末に渡米した旗本の小栗上野介(おぐりこうずけのすけ)から土産にもらった道具でワッフルを焼き、江戸城に持参したところ、大名や旗本にも大好評だった話など、菓子に関する話題が多く見られます。
金升自身、大の甘党を自認しており、その証明ともいえるのが、東京・京橋にあった「やまと新聞社」で若手記者として活躍していた明治30年代頃の逸話です。
同僚には、日本の推理小説の嚆矢ともいわれる時代小説『半七捕物帳』をのちに書くことになる、岡本綺堂(おかもときどう)がおり、2人はなんと家が隣同士、会社でも洒落を飛ばしあう仲でした。
ある日、お昼におむすびを食べていた金升は、おやつに持ってきた「京鹿の子」も食べたくなりました。「京鹿の子」とは、餡玉のまわりに蜜煮にした白いんげん豆をつけた菓子で、餡玉は、同名の絞り染めを思わせる紅色のものが多かったようです。
おむすびと菓子を左右の手に持ち、交互に口に運ぶ金升を見て、「お結びと鹿の子を喰い分ける人は珍しいナ」と綺堂が驚くと、金升はすかさず「京鹿の子むすび道成寺、とはどうです」といい、大笑いになったとか。即座に歌舞伎舞踊の名作「京鹿子娘道成寺」をもじった駄洒落で切り返すとはさすがです。当時の新聞は読み物や娯楽の要素が強く、記者も戯作や諸芸に通じた人が多かったといい、こんな洒落たやりとりもしばしばあったのかもしれません。
とはいえ、塩の効いたおむすびと甘い菓子を一緒に食べるのはどんな感じでしょう。綺堂は甘いものはあまり好まず、「汁粉を見るといやな感じがします」というぐらいだったそうですから、菓子を頬張る金升に、ぎょっとしたことでしょう。対する金升は、そんな反応を密かに期待し、楽しんでいたのではないかと想像してしまいます。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

『明治のおもかげ』岩波書店 2013年

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