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歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。

※ お菓子の画像はイメージです。お問い合わせは菓子資料室 虎屋文庫までお願いいたします。

2015.08.17

豊臣秀頼とのし柿

江戸時代の文献に見える熟柿と干柿『本草図譜』国立国会図書館蔵

悲劇の貴公子

豊臣秀頼(とよとみひでより・1593~1615)は、豊臣秀吉の嫡子として生まれ、母は織田信長の姪にあたる淀殿(よどどの)、妻は徳川家康の孫娘、千姫という、貴公子中の貴公子です。わずか6歳で父を亡くし、豊臣から徳川へ移り行く時代のなか、慶長20年(1615)義理の祖父・父の徳川家康・秀忠率いる十数万の軍勢に囲まれ、父の築いた大坂城で母とともに自害し、23歳でその生涯を閉じました(大坂の陣)。今年は没後400年の節目の年にあたります。

父とともに菓子を贈る

慶長2年12月、秀吉が中国地方の大名毛利輝元(もうりてるもと)を伏見城(京都府)の奥の座敷に招いた時のこと。はじめに秀吉が、続いて当時5歳の秀頼が、輝元にのし柿を与えたといいます(『萩藩閥閲録』)。のし柿は干柿をのしたものでしょうか。当時は木の実や果物も「菓子」と考えられ、献立記録や茶会記には栗や柿、蜜柑などが多く見られます。砂糖が本格的に流通するようになる江戸時代以前には、木の実や果物の甘みは貴重なものだったことでしょう。
ところで、秀吉はなぜわざわざ秀頼を同席させ、のし柿を渡させたのでしょうか。恐らく自身亡き後のことも考え、有力大名である輝元と秀頼の絆を深めようとしたのでしょう。翌年8月、秀吉は幼い秀頼を遺し、この世を去ることになります。

贈り物を手ずから渡す

秀吉没後の慶長9年4月、12歳になった秀頼に対面した公家の船橋秀賢は、手渡しで熨斗鮑をもらったことを日記に記しています(「慶長日件録」)。また、慶長11年、正月の挨拶のため秀頼のもとを訪れた京都鹿苑寺の僧、鶴峯宗松は「木練柿(こねりがき・熟した柿か)」をもらい、「例年は秀頼様自ら菓子を下さるのに、今年は挨拶の人数が多かったためか、小姓からだった」と述べています(『鹿苑日録』)。
豊臣家の当主として成長しつつあった秀頼は、学問や武芸に励み、聡明な人柄から将来を嘱望されていたといいます。父秀吉とともに過ごした幼き日々の中で、贈り物を自分自身で直接渡すことの大切さを学んだのかもしれません。
菓子などを手ずから頂戴していた公家や僧侶たちは、徳川氏によって追い詰められていく秀頼に最後まで同情的だったといわれています。

※ ちなみに輝元はこの時、秀吉と秀頼のどちらからかわかりませんが、饅頭ももらっています。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

福田千鶴『豊臣秀頼』吉川弘文館 2014年
曽根勇二『大坂の陣と豊臣秀頼』吉川弘文館 2013年

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