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歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。
※ お菓子の画像はイメージです。お問い合わせは菓子資料室 虎屋文庫までお願いいたします。

2014.09.17

益田紅艶と五色団子

錦絵から再現した目黒の飾り物の餅花

益田英作こと茶人紅艶

益田英作(1865~1921)は益田三兄弟の末弟にあたります。17歳年長の長兄孝(鈍翁)、12歳年長の次兄克徳(非黙)については、この連載の中でもすでに取り上げています(「益田鈍翁とお菓子」「益田非黙と水羊羹」)。
英作は15歳で渡仏し、英米にも滞在したのち三井物産に入社。社内では並外れた英語力が高く評価されていました。次兄非黙の影響を受け、江戸千家川上宗順のもとで茶を学び、ますます茶の湯の世界に魅了され、三井物産の役員を務めた後、明治38年(1905)には古美術商多聞店を設立します。
茶名紅艶(こうえん)の由来は、彼が芝公園(港区)の近くに住んでいた頃、知人たちが彼を「こうえん、こうえん」と呼んでいたことにちなんだとの由。彼は美食家で、大食漢でもあったため、福々しい巨体でした。鎌倉の大仏にメガネを掛けさせた風貌から大仏と自他共に称し、「大仏庵主座禅之図」の自画像をみることができます。

紅艶と五色団子

紅艶は美食家で大食漢のわりに、人に振舞う懐石は非常に質素で、しかも量も少なく、「おかわり」を申し出ると、「最初の美味を損すべし」と拒絶。このように厳しいかと思えば、紅艶席主のある茶会では、本来、ホスト役である席主は、懐石の最中はお客様の給仕に専念するはずなのですが、自ら「先ずはお毒見」「先ずはお相伴」と称して、招待客より先にどんどん食べてしまい、挙句の果てに、蕎麦饅頭を頬張って「アアうまかった」とメインのお客様である正客が言うべき感想まで言ってしまいます。これを聞いた正客が逆に席主に替わって挨拶してしまったなど、珍妙な席の記録も残っています。
紅艶は現在の東京都目黒区にある目黒不動尊の境外に別邸を設けました。不動尊の滝の水を邸内に引き込み、霊験あらたかという意味を込めて茶室には霊水庵と名付けています。
明治42年4月14日に行われた席披きの菓子には、五色団子が用意されました。目黒不動尊は江戸三不動(目黒・目白・目赤、のちに目青・目黄を加え五色不動)の一つとして知られていました。江戸時代後期の『江戸名所図会』「目黒不動」や錦絵「江戸自慢三十六興 目黒不動餅花」などから、門前で土産物として粟餅・飴、飾り物の餅花を売る店で賑わった様子をうかがい知ることができます。
残念ながら当日の五色団子がどのようなものだったのか分かりませんが、五色不動にちなみ黒・白・赤・青(緑)・黄の五色とし、門前の粟餅、飾り物の餅花を意識して団子に仕立てたのでしょうか。趣向を凝らす紅艶だけに、画像のように、五色の団子を木に突き刺して、水屋から主菓子として持ち出してきたのかもしれません。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

野崎廣太『茶会漫録』第1、9集 中外商業新報社 1912、1925
高橋箒庵『東都茶道記』二 淡交社 1989年
高橋箒庵『大正茶道記』一 淡交社 1991年
高橋箒庵『昭和茶道記』二 淡交社 2002年

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