歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。
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2013.12.16

頼山陽と小倉野

儒学者頼山陽

『日本外史』の著者として知られる頼山陽(らいさんよう・1780~1832)は、広島藩浅野家に仕えた儒学者の家の跡取りでした。しかし、若い頃に脱藩したこともあり、家を継ぐことができなくなってしまいます。後に京都に出て私塾を開いた山陽は、父の春水(しゅんすい)亡き後、広島の実家を守る母梅し(ばいし:「し」は風に思)へ、たびたび菓子を送るなど孝行に励みました。山陽が送った菓子には、干菓子や洲浜※1のほか、大坂の虎屋伊織の名物饅頭や、虎屋(弊社)のものとも考えられる「夜の梅」という菓子の名も見えます。
頼家では、年間を通して歴代の当主や広島藩主にまつわる儒教の祭祀が行なわれ、菓子を添えた膳が用意されました。菓子は自家製のほか広島の菓子屋に頼む場合もありましたが、山陽や親戚などからの到来品も多く使われています。山陽が送った菓子の添え状にも、父の一年祭(一周忌)に供えてくれるようになどとあり、母の菓子調達を助けようという心遣いが感じられます。

母に食べて欲しい

山陽は母自身に菓子を味わって欲しいとの思いも持っていたようで、特に小倉野※2という菓子を送った際の書状からそれが強く感じられます。
たとえば文政3年(1820)4月の書状には、梅しがすぐに他人にあげてしまうので、饅頭を添えたとあります。その饅頭を贈答に使い、小倉野は自分で食べるようにと念を押しています。また、天保元年(1830)3月の書状には、入手した小倉野が新しいもののようなので今日早速送ったとあり、次いで「惜しがらずに食べてください。しまい込まれたあげく知らない客に出されるのは私の本意ではありません」とまで述べています。せっかく送った菓子が梅しの口に入らないことがたびたびあったのでしょう。
小倉野は、山陽から年に6回も送られたことのある菓子で、梅しの好物だったのかもしれません。山陽の手紙からは母への思いやりが伝わるとともに、菓子をめぐるほほえましい母子のやりとりが読み取れ、温かい気持ちになります。

※1 きな粉を水飴で練り固めた菓子。豆飴ともいう。
※2 蜜煮にした小豆を餡玉につけた菓子。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

徳富猪一郎ほか編『頼山陽書翰集』上、下、続巻 1927~29年

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