歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。
※ お菓子の画像はイメージです。お問い合わせは菓子資料室 虎屋文庫までお願いいたします。

2012.11.16

荒木村重と饅頭

太平記英勇伝 荒儀摂津守村重(吉田コレクション)
饅頭を食べる村重
本朝智仁英勇鑑 織田上総介信長(虎屋文庫蔵)
刀に刺した饅頭を村重に向ける信長

教養人荒木村重

戦国武将荒木村重(あらきむらしげ・1535~86)は、もともと摂津国(大阪府・兵庫県の一部)の小豪族で、織田信長に取り立てられ、傘下の一部将として活躍し、晩年は豊臣秀吉にも仕えました。能や茶の湯にも通じた教養人で、特に茶の湯は千利休の高弟「利休七哲」に数えられる程の数寄者でした。天正11年(1583)2月9日、津田宗及(つだそうきゅう)に招かれた茶会では、菓子の時に、むき栗とともに椿の花が出され、亭主から花を生けるよう求められた村重は、床に2本の椿を生け、見事にその趣向に応えています。

不可解な寝返り

信長に重用され、摂津一国を任せられるまでになった村重ですが、天正6年(1578)10月、突如として信長に背き、居城有岡城に立て籠もります。村重は羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)らによる度重なる説得にも応じず頑強に抵抗しますが、信長方の軍勢に囲まれて孤立し、翌年9月にはわずかな部下と名物茶器を携えて有岡城を脱出します。置き去りにされた妻子ら一族郎党は信長の命で皆殺しにされたといいます。村重自身はその後中国地方に落ち延び、本能寺の変で信長が討たれた後、堺(大阪府)に戻り、秀吉に召し出されました。
謀反の理由については諸説ありますが、野心も才覚もある村重のこと、戦国の世に生まれた武将として、自ら天下取りを狙ったのかもしれません。妻子や部下を捨てても名物茶器は手放さないところは、当代一流の数寄者の意地といったところでしょうか。

串刺しの饅頭

現代の私たちから見ると、身勝手なとんでもない人物ですが、江戸時代の人々の評判は悪くありません。没後100年以上たった正徳2年(1712)刊の『陰徳太平記』には、村重がはじめて信長に目通りした際のこととして、次のような逸話が収められています。

村重が信長の面前に出ると、信長は何を思ったか刀を抜いて盆の上の大饅頭を2つ3つ刺し貫き、「これこれ村重」と声をかけた。満座の人々が驚くなか、村重は「あっ」と答えてするすると近寄り、大口を開けてその饅頭を食おうとした。これを見た信長は日本一の器と賞賛し、腰に挿した脇差を授けた。

にわかに史実とは信じられませんが、信長の威圧に動じない村重の豪胆さを表わすこの逸話は、江戸後期の読本『絵本太閤記』や、それを題材にした錦絵(上図)にも取り入れられ、好評を博したようです。
強大な権力者、信長に立ち向かった村重の反骨心は、部下や妻子を見捨てた卑怯さを差し引いてもなお、江戸庶民の心を捉えたのでしょう。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

瓦田昇『荒木村重研究序説』 海鳥社  1998年
米原正義校訂『陰徳太平記』 東洋書院 1980年

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