歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。
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2012.09.19

那須与一資徳と饗応菓子

有平糖

名族那須氏

那須与一(なすのよいち)をご存知でしょうか?平安時代末期の源平合戦の折、文治元年(1185)屋島(高松市)で、平氏が船上に掲げた扇を見事射落とし、あっぱれ武士の鑑ともてはやされた人物です。 那須氏は平安時代から下野国那須郡(栃木県)を領した豪族で、その後も代々有力豪族として続いてきましたが、天正18年(1590)資晴の時、豊臣秀吉によって領地8万石を没収されました。しかし、名門の廃絶を惜しんだ秀吉は、後に5000石を与えて、家名を存続させました。那須氏は、江戸時代には再び2万石の大名となり、領地も那須郡烏山に復帰しています。

那須与一資徳(すけのり・1672~1708)と饗応菓子

秀吉による家名再興以降、那須氏は当主の通り名(とおりな)を与一としています。もちろん源平合戦の那須与一にあやかってのことです。烏山藩2代藩主資徳も与一を名乗りました。与一は、弘前藩(青森県)4代藩主津軽信政の三男として生まれ、那須家の養子となり、貞享4年(1687)に藩主となりました。しかし、養子縁組に際して、養父の資弥(すけみつ)が存在を隠していた実子が、幕府に訴えるというお家騒動がおこり、藩は再びお取り潰しになり、与一は実家の津軽家江戸屋敷にお預けの身となっています。 父の信政は与一の無聊をなぐさめるためか、元禄7年(1694)閏5月に参勤交代に際して彼を弘前に連れて帰り、領内の神社仏閣参詣、温泉など津軽を楽しませています。与一が弘前を訪れた時には宴が催され、豪華な本膳料理でもてなされました。その時、出された菓子は、御茶菓子「はやこ餅」「こし小豆」「山のいも色付」、銘々菓子「ぎゆうひ」「あるへい」「おかぜ」です。「こし小豆」は漉し餡、「ぎゅうひ」は求肥で飴か餅菓子でしょうか、「あるへい」は南蛮菓子の有平糖です。山の芋は、津軽藩の江戸藩邸でも菓子としてよく使われていました。この内「こし小豆」は「はやこ餅」に付けたのかも知れません。 この菓子で気になるのは菓銘のことです。同時代の京都では雅な菓銘と美しい意匠の上菓子が大成していますが、ここでは求肥など菓子の種別が主に書かれています。「はやこ餅」「おかぜ」は菓銘のようには思えますが、詳細は不明です。この当時の弘前では菓銘は、まだ定着していないようです。ただし3年後の藩の日記には、「幾夜の友」「さざ波」などの菓銘が多く登場するので、ちょうど端境期だったのかも知れません。 この7年後、父信政の運動もあって、那須与一は1000石の旗本に取り立てられ、御家再興を果たしています。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

『弘前藩庁日記』青森県弘前図書館蔵
『大名屋敷におけるサロン文化について-『弘前藩庁日記』を中心に』科学研究費補助金研究成果報告書 2005年
岡崎寛徳『改易と御家再興』同成社 2007年

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