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歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。

※ お菓子の画像はイメージです。お問い合わせは菓子資料室 虎屋文庫までお願いいたします。

2011.11.16

酒井忠勝と菓子昆布

2人の将軍を支えた大老

酒井忠勝(さかいただかつ・1587~1662)は3代将軍徳川家光の側近から老中・大老へと進み、江戸時代前期の幕政の中枢を担った人物で、家光没後はその遺命を守って幼い4代将軍家綱を支えました。寛永11年(1634)若狭小浜(福井県)11万石余を拝領しましたが、30年近い治世の内、小浜に帰国したのは4回のみ、在国期間は合わせても1年に満たなかったそうです。
幕閣の重鎮として諸大名の信頼も厚く、また朝廷との関係の円滑化にも努めています。性格は細やかだったようで、江戸にいながら国元で水揚げされた初鮭の贈り先やその順番について詳細な指示をした書付も残ります。

家光お好みの菓子昆布

忠勝が特に心を砕いた贈り物に、小浜の菓子昆布があります。将軍家光のお好みの品で、死後も毎年日光東照宮や上野の寛永寺の霊廟に供えられたほどです。
寛永18年、忠勝は国元に出した書状の中で、献上した菓子昆布が、前領主の京極忠高(きょうごくただたか)が献上したものに比べ、「こしらへ悪(あしく)、其上塩からく被 思召候」と、家光の好みに合わなかったことを伝え、前領主の時代に製造されたものを吟味して送り直すようにと指示しています。どうやら家光は塩辛いことを嫌ったようで、寛永の飢饉のような非常時の最中にも、塩加減を気にする忠勝は「上様(家光)へ上ヶ申候御菓子昆布無之候間、いかにも念を入塩甘ク申付早々可越候事」と申し送っています。
昆布の菓子といえば、酢昆布や砂糖をまぶしたものもありますが、忠勝の指示からすれば塩昆布のようなものだったのでしょう。

狂言にもなった名物

若狭小浜の昆布は「召の昆布」と呼ばれた名物で、京都の地誌『雍州府志(ようしゅうふし)』(1684)にもその名が挙げられているほか、狂言「昆布売」にも登場します。
小浜で昆布を独占的に扱っていた「昆布屋」、天目屋九郎兵衛の由緒書によれば、その製法は一子相伝で、室町時代の将軍足利義政が「御めし(召し)」になったというのがその名の由来とされます。松前(北海道)産で敦賀(福井県)へ荷揚げされた昆布を使っていたため、松前から直接大坂へ向かう西廻航路が確立した江戸時代後期には、敦賀で上質な昆布を入手できなくなり、京都に仕入に行くこともあったようです。
「召の昆布」はそのまま、あるいは「巻昆布」などに加工して、進物に使われたようです。なかでも菓子昆布は、塩加減が決め手の名品だったのでしょう。

※  寛永19~20年にかけておきた大飢饉。忠勝も急遽小浜に帰国して対策にあたっている。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

『小浜市史』通史編上・諸家文書編1・藩政資料編1
『酒井家編年資料』(東京大学史料編纂所DBより)

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