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歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。
※ お菓子の画像はイメージです。お問い合わせは菓子資料室 虎屋文庫までお願いいたします。

2010.12.16

喜多村信節とどら焼・金つば

『夜半の月(よわのつき)』…パリ店限定の虎屋のどら焼と江戸時代の金つば

風俗研究で知られる国学者

喜多村信節(きたむらのぶよ・1783~1856)は江戸時代後期の国学者です。江戸町年寄の次男として生まれ、学問の道に進み、考証を専門として、多くの著述を残しました。江戸を中心に、民間の風俗、伝承の記録考証に努めたことで知られ、付録も含めて13巻に及ぶ大作『嬉遊笑覧』(きゆうしょうらん・1830自序)は、以前ご紹介した『守貞謾稿』(もりさだまんこう)と並び、江戸時代の風俗研究には必読の書とされます。
『嬉遊笑覧』を著わすにあたって、信節は和漢の書から、生活風俗に関わることを抄録、服飾・祭祀・音曲・言語など28項目に分類し、考証や自説を加えています。飲食は巻10にあり、菓子についても煉羊羹は、寛政(1789~1801)の頃、「紅粉や志津磨」(べにこやしづま)が初めて作ったこと、「はらぶと餅」(腹太餅)は「大福餅」ともいったことなど、興味深い記述が少なくありません。

どら焼と金つば

現在、どら焼と金つばは、素材も味も全く違う菓子ですが、かつては同じものだったこともわかります。「今のどら焼は又金鐔やきともいふ」「どらとは形金鼓(ゴング)に似たる故鉦(ドラ)と名づけしは形大きなるをいひしが、今は形小くなりて、金鐔と呼なり」がその記述の部分。「どら」は楽器の鉦(銅鑼)に由来し、形が大きいものをどら焼、小さいものを金つばと呼ぶようになったそうです。
今日、金つばは、四角くした餡の六面に小麦粉生地をつけて焼いたものが主流です。しかし、江戸時代は餡を小麦粉生地で包み、焼いたもので、刀の鐔の形に似せ、丸形でした。こうした金つばがどら焼きとも呼ばれていたことを考えると、なんだか不思議な気がしませんか?信節の考証学の視点が身近な菓子にも注がれたからこそ、由来や変遷を知ることができるともいえるでしょう。
ちなみに、卵を入れた生地を焼いて餡をはさむどら焼が広まるのは、明治時代以降と考えられます。作り方に変化があったとはいえ、今なおどら焼・金つばが不動の人気を保っていることを知ったら、信節は驚くかもしれませんね。

※  なおどら焼には、「銅鑼で焼いたことにちなむ」など、ほかの説もあります。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

「嬉遊笑覧」(『日本随筆大成』 別巻第7~10巻 吉川弘文館 1979年)

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