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歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。

※ お菓子の画像はイメージです。お問い合わせは菓子資料室 虎屋文庫までお願いいたします。

2009.09.16

原三溪と菓子

さつまいも茶巾しぼり

茶人 三溪(さんけい)

生糸の生産・輸出で成功を収めた実業家・原富太郎(三溪・1868~1939)は、横浜の三溪園の設立者、近代日本画壇の育成者として知られています。一方、関東大震災後、横浜の復興に尽力したことや、三井の益田鈍翁(どんのう)、「電力の鬼」と呼ばれた松永耳庵(じあん)とともに、近代三大茶人のひとりと言われていることは、一般的にはあまり知られていません。
三溪は、仕事や美術品収集の関係から鈍翁、高橋箒庵(そうあん)との交流を通してお茶に親しむようになりました。大正6年(1917)12月23日、鈍翁、箒庵らを招いた三溪初の茶会は、三溪園内にある蓮華院一槌(いっつい)庵にて催されました。庵名は鈍翁より贈られた水指「一槌」に由来するのではないかと思われます。『東都茶会記』によると「懐石は総てお手製にて、…大寂び趣向にて如何にも山庵の御馳走らしく…」とあり、菓子は「越後屋製小麦饅頭」でした。「越後屋」とは当時の茶人たちの間で定評のあった「越後屋若狭」のことでしょうか。しかし三溪が記した『一槌庵茶会記』には「そば饅頭むして」とあり、店名の記載はありません。
彼の菓子の好みを探ってみると、伝記には、日常生活でもお茶で饅頭を一つ、二つと頬張る場面が見られるほか、会記では「草餅」「草求肥」「餅に餡かけ」「栗のあめだき」など素朴な菓子の記述が目につきます。

浄土飯の茶会

昭和12年(1937)8月、恒例となっていた朝茶の開催直前、長男の善一郎が45歳の若さで急死します。誰もが茶会は中止になるであろうと思っていましたが、初七日を過ぎた15日より、数回にわたり浄土飯の茶会が催されました。軸には「君を望む」と書かれた惜別の一偈。懐石の趣にも席主の思いが込められました。蓮の葉を敷いた飯櫃にご飯を盛り、そのご飯を大輪の花を思わせるように紅蓮の花弁で覆って出されました。取り分けたご飯には、若い蓮の実を煮たものを散らし、だし汁をかけて食します。お菜は納豆(大徳寺納豆か)、漬物だけのシンプルなもの。菓子は「さつまいも茶巾しぼり 蜂蜜」でした。時期的にまだ完熟でない芋ゆえに甘みを補うため、あるいは芋の生地がまとまるように蜂蜜を加えたのでしょうか。
質素な取り合わせとは言え、蓮の花やその香気、熟しきっていない素材を使うところに、若くして亡くなった息子への思いが窺えます。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

参考文献:

高橋箒庵『東都茶会記』、『昭和茶道記』淡交社
茶道誌『淡交』平成5年6月号 淡交社
新井恵美子『原三溪物語』神奈川新聞社 2003年
三溪園保勝会『三溪園100周年 原三溪の描いた風景』神奈川新聞社

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