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歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。

※ お菓子の画像はイメージです。お問い合わせは菓子資料室 虎屋文庫までお願いいたします。

2007.05.16

馬越化生と新濱千鳥

大正7年(1918)絵図帳より

茶人 化生(かせい)

大日本麦酒社長の馬越恭平(まごしきょうへい・1844~1933)は「ビール王」として名を馳せた人物ですが、近代の代表的な茶人としても知られています。号の「化生」は弘元年まれにちなんだものといわれています。お茶との出会いは益田鈍翁(どんのう)の弟、克徳(こくとく)の導きによるもので、彼の師匠である川上宗順の門に入ります。化生翁は陽気な性格で、いつもニコニコ、大きな声で「ヤアヤア」と声をかけ、その風貌は自社看板の恵比寿様にそっくりだったともいわれていました。しかし、ひとたび茶席に入ると、非常に厳格な指導を受けたせいか、別人のように無口になり、緊張のあまり、会話の語尾に「シェッ、シェッ」と謎の音を発する癖があったようです。

茶と菓子

中央新聞社が著名人への聞き書きをまとめた『名士の嗜好』(1900)には馬越恭平の項があります。その中に「茶と菓子」と題した記述があるので、引用してみると「まず茶人の菓子といったら越後屋でなければならぬことになって居ります。その他本郷の藤村なども好い菓子屋であります。」とのこと。残念ながら虎屋の名はありませんでしたが、当時の茶会で好まれた菓子舗の一端を知ることができます。

三代茶人と「新濱千鳥」

化生翁の子、幸次郎(獅渓 しけい)、孫の恭一も茶を嗜み、茶人仲間の高橋箒庵は自著『昭和茶道記』で彼らを「三代茶人」と呼んでいます。亡くなった長男に代わり、家督を継いだ幸次郎は、父親化生翁の喜ぶ顔見たさにお茶をはじめたといわれています。箒庵はこうした幸次郎の初陣茶会を記念して自作の茶杓「親孝行」を贈っています。
虎屋には大正、昭和と麻布市兵衛町、北日ヶ窪町の馬越家へのご注文記録が残っています。その中から特徴的なお菓子をご紹介します。まず回数の多かった焼物製「新濱千鳥」。虎屋の記録によると菓銘としては正徳元年(1711)に記述が見られますが、上図のように焼菓子としても作られるようになったのは、明治後半頃と思われます。卵、砂糖、小麦粉の入った生地を焼き、小倉餡を入れ半月形に折って、鳥の形に整えます。記録には「中」の表記も見られるので、150gくらいではないかと思われます。今の通常商品の3倍くらいの大きさだったので、生地が裂けることなく、このような細工ができたのでしょう。どのようなご用途だったのか分かりませんが、「バラで10個」「ボール箱入り20」などの表記が見られます。同様に「大福餅」の記述も「バラで10個」など頻繁に出てきます。そのほかのお菓子のご注文も10個でのお届けが多いことから、専用のお通箱があったのではないかと想像されます。親子孫三代の家族がお茶菓子として召し上がったのかもしれません。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

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