歴史上の人物と和菓子

今も昔もお菓子好きはいるものです。歴史上の人物にまつわるお菓子のエピソードを連載しています。
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2005.07.16

高橋箒庵と栗鹿の子

実業家としての顔

水戸藩士の子として生まれた高橋箒庵(たかはしそうあん・本名:義雄1861~1937)は、慶応義塾で学んだのち、時事新報を経て、2年間アメリカ・イギリスに遊学します。帰国後、三井銀行に入行し、さらに三井呉服店に移ってからは、海外での見聞を活かし、主にデパートメントストアをモデルとした大改革を行ないます。その後三井鉱山、王子製紙の経営にも参画しました。

数寄者としての顔

箒庵が茶道をはじめたのは益田鈍翁の弟克徳の茶会がきっかけになったといわれています。三井呉服店に移った35歳頃のことでした。
51歳で実業界を引退し、茶道三昧の生活に入った箒庵は、茶道に対する造詣、青年時代に磨き上げた文章力、財界人としての交遊の広さを駆使して、現在でも茶入・茶碗の戸籍簿ともいわれている『大正名器鑑』を編纂します。また近代茶人の動向を知る上で貴重な『東都茶会記』など読み物風の茶会記も著します。これらの中には、例えば、益田鈍翁が開いた斎宮女御茶会※1で出された「檜扇」のように、虎屋製と明記された菓銘もみられます。

「栗」大好き

箒庵は大正6年(1917)12月、虎屋に程近い赤坂一ツ木通り沿いの高台に、伽藍洞(がらんどう)一木庵(いちぼくあん)を完成させ転居します。
虎屋に残る売掛台帳を見ると、この頃より「一ツ木高橋様」の記載が現れます。特徴的な記録では、大正7年(1918)10月の項に、多くの「栗鹿の子」のご注文が記されています。彼の著作から同時期を辿ってみると、日記『萬象録』には8回催されたとされる柴庵翁※2追善茶会の記述があり、ご注文日との一致がみられます。また『東都茶会記』にも「伽藍洞茶会 故柴庵翁追善」の項に「…栗製の菓子を味ふて復た寄付に中立し、…」との記述もあります。これらのことから一連の茶会には「栗鹿の子」が主菓子として使われたものと推測されます。またご注文日は茶会以外の日にもあり、他の用途としても使用されたようです。
その後も秋になると「栗鹿の子」のご注文記録や、箒庵席主のその他会記には栗饅頭など栗を使った菓子も記されているので、箒庵は栗が好物だったのかもしれません。

※1 分断された佐竹本三十六歌仙のうち益田鈍翁が入手した斎宮の歌仙絵披露の茶会。
※2 柴庵翁(さいあんおう)  朝吹英二(1849~1918)慶応義塾出身。実業家。三井に入り、現鐘紡などの経営に参画。多くの人望を集めた。

※この連載を元にした書籍  『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・税込1944円)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)

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