2011.08.16
石川啄木とかき氷

夭折の天才歌人
石川啄木(いしかわたくぼく・1886~1912)は、26歳という短い生涯ながら文学史上にその名の輝く天才歌人です。 岩手県に生まれ、与謝野鉄幹(よさのてっかん・1873~1935)の知遇を得て、啄木の号で短歌や長詩を発表。 本来、目指していた小説家としてはなかなか認められず、貧困生活が続きましたが、口語体三行書きの形式で生活の悲哀を 詠んだ作品群は今日も色あせません。
向かいの氷屋
明治42(1909)年の夏、「函館日日新聞」に連載した文章には、当時住んでいた東京・本郷の氷屋が登場します。 かき氷が爆発的に広まったのは、西洋から製氷技術がもたらされた明治時代のこと。冷たくおいしい日本の夏の風物詩として人気を博し、この頃にはすっかり庶民に定着していました。 ある日、啄木が2階の窓から外を眺めていると、「氷屋の旗(フラフ)」が目にとまります。数日前まで加賀屋という一膳飯屋(いちぜんめしや)だった向かいの家が、ガラス管をつないだ涼しげな管暖簾(くだのれん)のかかった氷屋に変身したのです。当時の東京では、冬は焼芋やおでんなどを商い、夏になると氷屋になる店が珍しくありませんでした。
氷を「食ふ」ことについて
その旗を眺めていた啄木の考えは段々と壮大な方向へと進んでいきます。 「氷は冬の物である。それを夏になつてから食ふとは面白い事である」が、自然は「その愛する処の万象を生育させんが為」に時に夏の暑さを与えるのだから、自然界の一生物に過ぎない人類は、おとなしく服従すべきであるのに、氷を食べて暑さを和らげようとするのは「自然に対して反逆してゐる」。まして、「味覚の満足」のために砂糖やレモン、蜜柑などを混ぜるとは「人間の暴状も亦極まれりと言ふべしである」というのです。 かき氷に手厳しい啄木ですが、日記を見ると度々、氷を食べたとの記述が・・・・・・。理屈をこねながらも、夏ならではの味わいをしっかり愉しんでいたようです。
※この連載を元にした書籍 『和菓子を愛した人たち』(山川出版社・1,800円+税)が刊行されました。是非ご一読くださいませ。(2017年6月2日)
- 参考文献:
『啄木全集 第4巻 評論・感想』 筑摩書房 1967年
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