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寺島蔵人とかい餅

掲載日2009年10月16日
参考:おはぎ(牡丹餅)
秀でた藩政改革者

寺島蔵人(てらしまくらんど 1777〜1837)は江戸時代後期の加賀藩士で、「乾泉」(けんせん)「応養」(おうよう)と号した画家としても知られる人物です。才能豊かな蔵人は、隠居の身ながら藩の実権をにぎっていた前田斉広(なりなが)の抜擢により、文政7年(1824)、藩政改革のための親政機関「教諭方」の一員に加えられます。しかし、同年斉広が急死したため、教諭方は解散。翌年、持ち前の正義感から藩の重臣と対立したため、免職となり、その後も藩政批判を続けたことによって天保8年(1837)には能登島(石川県能登島町)に流刑、同年生涯を閉じました。


能登島での暮らし

能登島流刑の約4か月の間、彼は日々の生活をイラスト風の絵を交えて日記に記したり、頻繁に家族へ手紙を送ったりしています。政治的な理由での流罪だったため、監視される身とはいえ、来客を迎え、村人と交流するなどの自由が許されていました。飲食が何よりの楽しみ、そして慰めでもあったようで、日記には食事の献立、味の感想なども見えます。菓子についての記述も多く、金沢の知人がカステラや落雁を送ってくれたり、来客が饅頭やうずら餅などを土産に持ってきたりしたことがわかります。「アマミ薄し」「む(う)まく御座候」など、時折見える感想がほほえましいもの。自身でも葛餅、かい餅や団子を作っているところをみると、菓子の類は好物だったのでしょう。煎餅を火鉢で焼くところなどは、「醤由(油)を付 順ニあふらせ被下候、中々宜く、至而上品なかきもちのさと(砂糖)醤由(油)やきの様ニ而…」と香ばしいにおいが漂ってきそうです。


病に伏して

能登島での生活も3か月を過ぎた頃、蔵人は体調をくずし、食欲も失せてしまいます。とはいえ、亡くなる数日前に家族にあてた手紙には、甘いものは欲しくないが、かい餅ならば毎日食べてみたい、よくなって、かい餅をたくさん作りたいなどと、書き残しています。流刑の不運に見舞われ、病に倒れた蔵人でしたが、故郷に帰るためにも早く健康を取り戻したいと願ったことでしょう。蔵人の心情が想像されます。

*かい餅 本文の記述は「かももち」とも読めるようだが、下記の研究会では、好物の「かいもち」(牡丹餅)と解釈している。今のものにくらべ、さほど甘くはなかったのだろう。

参考:若林喜三郎監修・金沢近世史料研究会編『島もの語り‐寺島蔵人能登島流刑日記‐』 北国出版社 1982年 続編は1985年



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